君の涙で錆びてしまえば
君が涙してくれれば
065:錆びた鎖
道場は乞われれば誰にでも門扉を開く。悪童たちから年かさまで、教える立場にある藤堂鏡志朗は出来る限り時間を割いた。本業が別にあるとはいえ閉じた世界であるからこうした刺激がたまに欲しくなる。その道場は曰くあって厄介になっているが単純に教え子たちの腕が上がっていくのを見るのは楽しかった。その教え子たちをみな帰してあとは藤堂が戸締りをして帰るだけだった時にそれが来た。名を朝比奈省吾といったそれは若輩で、けれどそれ故の勢いや派手な戦績を伴って藤堂の元に来たものだ。藤堂が道場の世話になっていると聞いて道場破りよろしくやって来た。だから相手をしている。素早い切り返しや連撃。一撃の重みがなくとも連撃を繰り出す速さと判断力がある。利き手はあると思うのに木刀の持ち手が乱れても剣戟に明確に表れない。左右両方をそれなりに器用に扱うのだとうかがわせた。
藤堂の体は傾いだり半歩退いたりして朝比奈の打ち込みを受け流す。一撃を誘う隙はあったがその挑発に乗ってやるのはもう少し朝比奈の手の内を見てからにしたかった。鳴り物入りで藤堂の元に来ただけはあるのだと思う。全くのはったりではなかった。的確に急所を突こうとするし藤堂の隙にもむやみやたらと突っ込んでこない。オレがやりたいのはゲームじゃなくて真剣勝負だから。そううそぶくだけの実力はあるのだと思った。
そろそろ頃合いか。朝比奈の呼気に乱れが生じ始めたのを見てから藤堂は体の重心を移動させた。ぐっと矯めるように間をおいて藤堂の速さが弾ける。剣戟の隙間を縫うように、間をずらして藤堂の切っ先が奔り朝比奈の手を強く打った。ぐぅっと喉を鳴らして呻きながらも獲物を落とさない朝比奈に感心しながら不安定に揺れる朝比奈の木刀を弾き飛ばした。打撃にしびれた握力では堪えきれない。藤堂は獲物を構えたままとんとんと軽く床を蹴って退った。落下した木刀がからんからんと乾いた音を立て、びりびりとした痛撃を堪える朝比奈は攻勢や防御はおろか構えも取れない。悪あがきのように黙していた朝比奈がついに口を利く。
「…参りました」
それを機に藤堂も構えを解く。互いの獲物であった木刀を拾って片付け、その足で救急箱を取りに行く。剣戟の道場で、しかも子供も通うから怪我の手当てができるだけの備品はある。とさ、と衣擦れの音をさせて座る朝比奈の元へ藤堂もかがむ。二人共の胴着は剣戟の名残の汗で布地の粗さが和らいで動きも障りない。紺袴は夜闇へ融けるように月白の床の上に不用意に広がる。衿の合わせから覗く胸部や袖から覗く手首の細さに朝比奈の目線が向くのを藤堂は感じながらあえて問わない。手当をしながら破壊が深部に及んでいないか、障りはないかと矯めつ眇めつするのを朝比奈は好きにさせる。
「…藤堂さんって本当に」
「なんだ?」
「組み手も剣戟も駄目。たぶん将棋とかやっても負ける気がする。なんでそんな何でもそろってるかな」
「なにもそろってなどいないが」
小首を傾げる藤堂の額にも汗はにじんでいる。朝比奈はけして楽に勝てる相手ではなかった。
「私はお前くらいの頃合いにはそう強くもなかったが」
「信用できない情報ですね、それ」
むぅと藤堂が唸る。藤堂とて突然この戦闘力を手にしたわけではない。痣や怪我や、時には駆動部を破壊されたりした。未熟なのだと怪我をおすのも無理をするのも生真面目な思い詰めが影響していると判っていても直らない。もっとも藤堂に剣戟や戦闘の方法を仕込んだものは隙があれば容赦なく打ったし図星をついたりもしたのだが。くじけてくじいて生傷の絶えない時期もあったがそれを苦と思ったことはない。
「藤堂さんてば本当に容赦ないんだから」
「手加減をしてほしいということか?」
「要りませんよ。ていうか手加減したら怒りますよ」
それにしても手を狙われるなんて。これじゃあ藤堂さんを可愛がってあげられないなァ。防具もつけていないのに脳天を狙うわけにもいかないだろう。真顔で指摘するのを朝比奈が頽れた。幸い手当は終わっていたから好きにさせる。藤堂さんって色気があるのに色気がないですね。よく判らないのだが。しんとふけた夜の闇が月白の板張りの上に満ちる。剣戟の音も消えて人の気配も希薄なそれにそわそわとする。夜闇は不安をあおる。怖いわけではない、と思う。成人した男の思うことではないし藤堂自身自分がそういう性質であるとは思っていない。朝比奈はすッと藤堂の手の中から自分の手を退いた。藤堂に比べれば線の細いなりだ。それでも天才剣士の二つ名が不足ではないだけの実力はあるとみている。年齢的なものから考えても才はある。あさひな? 私の元につくのが不満ならそう、上に訴えてくれて構わない――
ぱん、と軽やかな音が響いてから藤堂はきょとんとした。頬を打たれた。本気の一撃ではないだけの手加減のあるものだった。そも、本気で殴るなら拳にしているだろう。あさ、ひな。馬鹿にしないでください。
「あなたくらいの実力があればもっと」
「分はわきまえているつもりだ」
「あぁもう、それが腹が立つよ。自分が軍属であるということ、判ってます?」
軍属は完全な縦社会だ。上が言うなら白も黒になるし、黒にしなくてはならない。上層部の愚断でも一度下ればそれが絶対だ。歯車である部下たちや兵士たちは従うしかない。
「藤堂さんはもっと上に居ればいいのにそうすれば」
「省吾」
ちゅ、と唇が重なる。朝比奈の暗緑色の双眸が見開かれる。道化た丸眼鏡の奥で睫毛が瞬いた。
「分は、わきまえているつもりだ」
「そういうところは嫌いです」
びくっと藤堂の肩が跳ねた。多少のことでたじろいだりはしないが痛手を被らないわけではない。面と向かって嫌いだと言われればそれなりに萎れた。鎖、ですね。くさり?
「そうですよ。藤堂さんをつないでいる鎖を切ってあげられたらいいのに。こう壊れそうに錆びたそれでも――あなたは自分からそれを断ち切ることはしないんだ」
決断力のなさを責められているのだと萎れるのを朝比奈の暗緑色が痛むように見つめる。あなたは、いつも、そうなんですね。いつも、とは。全部もってっちゃうってことですよ。そんなの俺の所為じゃないって突っぱねればいいのを痛みごと引き取っちゃうから嫌なんだ。私は、別に。藤堂さん、後始末ばっかり上手くなっていってるでしょう。今度は藤堂の喉がうぐるぅと鳴った。軍属の上層部は慎重派が多い。必然的に腰の重い作戦ばかりになる。藤堂の眉根が寄ったが朝比奈はつけつけと続けた。
「もっと柔軟さを求めるなら藤堂さんみたいな――グダグダ言ってもしょうがないんですけど。最前線に立つだけが軍属じゃないでしょう」
「省吾」
朝比奈の下の名を呼ぶ。それが藤堂からのせめてもの抵抗と反論だった。朝比奈もそれを判っているから言葉に詰まる。聡明な性質なのだ。沈黙が下りた。
月白の板張りの上に馴染んでいた紺袴が動く。
とん、と胸を圧されて藤堂はそのまま体を傾がせた。
仰臥した藤堂に朝比奈がかぶさる。
「あなたがもっと野心家だったら良いのに」
「私は欲深な方だぞ」
「へぇ、例えば?」
くふんと朝比奈が嗤う。藤堂は灰蒼の双眸を朝比奈に据えたまま言った。
「抱かれても構わない」
応えはない。朝比奈は黙ったまま衿の合わせを乱しかき開く。袴の紐を解くシュルシュルという衣擦れの音。藤堂は明らかに恐怖ではなく期待で身震いした。
「本当に、いいの」
鋭い眼差しだ。強い雄の目だった。
「私は鎖を、切れない」
正直なところだ。灰蒼の眼差しを暗緑色が真っ向から受ける。
「そんなもの錆びて腐って切れてしまえばいいのに」
朝比奈の手が藤堂の下腹部へ滑り込む。藤堂は震えを帯びながら仰け反った。
打った手に支障はないのだとそれだけを無為に想った。
朝比奈の手つきに翻弄される。
捨て鉢になっていると判っていながら藤堂は身を任せた。
指先が、熱い。
《了》